【 縁なき衆生は度し難し❓ 】
(どうしても他人を許せない自分に。。)
どうしてそういうことをするかね?
こんなに良くしようとしてあげているのに、
なんでわかってくれないのかしら?
全くもって失礼だ!
人と付き合っていると、意に沿わない相手の言動に、怒りや困惑を感じることは、少なくないことです。
こんなとき、憤りの感情をどのようにコントロールしていますか?
「縁なき衆生は度し難し」という言葉は、
仏教における救済の難しさ、人間関係の限界を示した言葉で、
信じる気持ちや素直に耳を傾ける心のない者は、いかに広大な仏(お釈迦様)・菩薩の慈悲をもってしても、救うことは難しい!
という意味があるようです❗️
いついかなる時も全人万人と気が通ずることは無いし、中には分からず屋もいるさ!
完璧な人間関係を築こうとすることの方が、健全ではないさ!
と、思えば少しは腹の虫も収まるでしょうか🤣
しかしながら仏教では、
「一切衆生悉有仏性」 とも言います‼️
命あるものは全て仏になれる性質・可能性を元来、備えていることを説きます。
弘法大師もまた 、
「一切衆生の心中にみな仏性あり、 如来蔵を具せり」
「一切衆生は無常菩提の法器にあらざるはなし」 として、
生きとし生けるものは無常の悟りを得るに、ふさわしくないものは無い!と説かれています。
一体どっちなの?
いやはや、わたしのような凡夫はどう捉えたらよろしいでしょう。。か😅
ヒントをやはり仏典「遺教経」に見出してみます。
ブッタ(お釈迦様)は、
「 応に度すべき者は、 若しは天上人間皆悉く既に度す。
其の未だ度せざる者には、 皆亦己に得度の因縁を作す。
自今已後、 我が諸の弟子、 展転して之を行ぜば、 即ち 是れ如来の法身常に在して而も滅せざるなり 」
その意味は、、、、
「わたしが救うべきものは、天上界であれ、人間界であれ、生きとし生けるものは皆全て、救い終わった。
まだまだ済度されなかったものには、いつの日にか必ず救われるという縁を作っておいた。
私はここで死んでも、今後、皆が我が説いた教えを次から次へと伝え続け、定められた通りに修行するなら、そこに私の真実の身体がある。
この身体は目には 見えないが法の身体であるから、 いつ、どこにでも在して、しかもなくなることはない。」
と云い遺されています😇🙏
釈尊は 「私が済うべきものは全て済った」
そして、 「まだ済われないものも将来必ず済われると言う縁を作っておいた、与えておいた」と加えています。
悉有仏性ですから、 仏縁のない衆生は全くないということです。
「無縁」 とは、仏に遇い、法を聞く機縁がないことをいいますが、もう一つの意味があります。
「無条件の縁」 「特定の対象のない縁」 という意味です!
仏の慈悲を『無縁の慈悲』といい、その慈しみはあまねくあらゆるものに及び、慈悲のなかで最も尊いものとしています。
未だ済われないものも、将来は済われると言う【機縁】!
これこそ大事というべきでしょう!
今は、機縁が熟していないだけで、いずれ将来、善い縁が熟すことを信じて疑わないでおこう❣️と思えれば、重い気持ちも吹き切れますし、自分自身も済われる気がします♪
さらに、全ては空 (縁起による) であると観じられれば、あくまで自分や相手のその時のタイミング(その時の人格ステージ)によって、【感情】が動いているだけなのかな!と納得できるようにも思います。
時が経てば、相手に対する感情は変わりますが、「縁」そのものは最初から終わりまで一定の、意味のある必要な関係性であるのでしょう!
合わせて言えば、「俺には関係ねえ!」なんてことは、そもそも無い❗️ですね〜😇
「縁なきもの」は何人にとっても、有り得ないですね‼️
**********************
『縁』については、致知出版社の書籍「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」の小野田寛郎さんの頁の文が、非常に印象深く心に残っています。
フィリピン・ルバング島のジャングルで、太平洋戦争終了後も29年間潜伏し、生還した元陸軍少尉の小野田寛郎さんのインタビュー談話を、以下、引用させていただきます。。
**********************
(島での生活において)
よく孤独感はなかったかと聞かれましたが、
僕は孤独なんていうことはないと思っていました。
22歳で島に入りましたが、
持っている知識がそもそも、いろいろな人から授かったものです。
すでに大きな恩恵があって生きているのだから、
決して一人で生きているわけではないのです。。。!
この記事へのコメントはありません。