「美徳のよろめき」と言う怪しげな純文学小説がありましたけど、その原作者、三島由紀夫を敬愛する石原慎太郎氏の、
『男の美徳』と題する演説です!
是非はともかく、政・官・民のいずれか単位に留まらない国家観を持っていた慎太郎氏。
社会的発言力の大きさもあいまって、その一見した強面とは裏腹に、短絡的利益よりも奉仕を優先できた稀有のサーバントリーダーだった気がします❣️
(何よりも文学者だったのですが)
◉実は、この動画には明らかな間違いがあるのです。
それは、【字幕テロップ】の内容です。
演説中の石原慎太郎氏の語りに、字幕はこうなっています!
——————
(中略)
(三島由紀夫氏との対談のお題は)
男は何のために死ねるか?
男にとって最高の美徳は何か?
(中略)
ニ人とも全く同じ言葉だった
これは自己犠牲です
自分を燃やし尽くすことです
それが男の美徳なんだ
(後略)
——————
どこが間違っているかと言うと、
「自分を燃やし尽くすことです」
の部分です❗️
石原氏は正確にはこう言っています!
『自分を空しく(もしくは、虚しく=むなしく)することです』‼️
燃やし尽くすと、空しくでは全く意味が違ってきます。
文脈から言っても、「自己犠牲」を言い換えているので、間違いなく「空しく」が正しいです!
単純に字幕を打ち間違えたのかもしれませんが、少なくても石原慎太郎氏を尊敬している(であろう)動画の製作者が誤ったのは、少し残念です!
もしかしたら、『空しく(虚しく)』と言う言語概念を存じてなかったかもしれないと予想したりするのです。
一般の現代日本人にしても、今や身近な言葉では無いのかもしれません。
自分を虚しく・己を空しく とは、
「私情を捨て、わだかまりのない虚心の状態になること」と辞書にはあります。
古来より、幾多の思想哲学にその概念を見て取ることができます。
◉道家 「虚己以聴(己を虚しくして聴く)」(荘子) 心を空にして外物をそのまま受け取れる者こそ道(タオ)に合一できる。
◉儒家 「虚壹而静(己を虚しくして一点に専らす)」(荀子) 為政者の耳目を偏見から解放して民の声を聴く態度として推奨。
◉仏教 「空(śūnyatā)」(大乗仏教のキーワード) 煩悩・執着・自己概念を手放し、変化をそのまま受け取り、無我の境地へ向かう過程。
◉キリスト教 「ケノーシス(自らを空にする)」(新約聖書 ピリピ人への手紙) 特権を放棄し、自身の欲望を空にし、神の御心に完全に従順になる自己の無化。
自己をなくす、無我の境地と言うと、絵空事のように思えるかもしれませんが、大昔から人々が幸せになる(少なくても不幸にならない)ための智慧として、洋の東西を問わず、営々と伝えられた真理のように観えます❣️
でなければ、これほど多くの叡智の中に染み込んで、広がり続けることはなかったでしょう。
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近代日本において製造業を核としたコンチェルを築き上げた、鮎川義介翁(日本産業グループ創始者)は、このように語っております!
「己(おのれ)を空〈むな〉しうすることが、
人の幾代かを要すると思われる大事業も、
よく一代で成し遂げられる」
義介翁は、日産自動車・日立グループ・日本水産・新日鉱グループ等々を育てあげた、稀代の産業人です。
当時“儲からない”とされた大衆車を国益優先で開発(先行投資)した翁は、やがて日産コンチェルンを形成するに至りました。
しかしながらその生前において、叙勲・銅像・株の譲渡等の話の一切を辞退しております。
また、同族経営を否定し株式を公開したことでも知られ、親族にさえ株を遺さなかったようです。
そればかりか、70才を過ぎて参議院議員となり、自身が大企業の代表のような身分でありながら、中小企業の振興への活動・法整備に尽力する晩年を過ごしました。
私名を掲げず、功績を個人資産に転化しませんでした。
資本を大衆に開放し、利益循環を社会へ回し続けました。
企業においては中小、生活者においては中間層が豊かであるべきと説き、自ら築き上げた経済力と人間力で実践した人物が、確かに日本に存在していたのです‼️
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戦前までは世間一般にも、「相手に和して、自己主張を捨てれば争いは起こらない」というのは、普通の処世訓として生きていたのが日本です!
それは何も、自分を無価値とみなす自己否定でもなければ、行き過ぎた不条理観・無意味観に沈むニヒリズムでもありません❗️
エゴの占有率を下げ、より大きな関係性に己を開く行為であり、むしろ【空】を通じて万物相互依存の充実を体験するポジティブな方向性です。❣️🥰
けして逃避の口実ではなく、先入観を外して柔軟に取り組む、人生や世間に誠実な姿勢のことを言うのだと思うのです♪😊
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